1855(安政2)年に国内初の稜堡(りょうほ)式城郭として築造された「松前藩戸切地(へきりち)陣屋」(北斗市野崎)の成り立ちや歴史、設計技術などを紹介する北斗市郷土資料館の特別展「松前藩戸切地陣屋跡展-星の系譜-」が6月30日まで開かれている。同展を企画した学芸員の時田太一郎さんに、最新の研究を通して分かった戸切地陣屋の「秘密」を聞いた。
―――まず、戸切地陣屋について簡単に教えてください。
時田さん:当時脅威を増していた諸外国、特に北方からの勢力に対する防衛のため、幕府は安政2年に蝦夷地を直轄地にすることを決め、警備を北方の5藩に分担させることにします。このうち箱館奉行所のある重要地、函館平野一帯の警備は松前藩に任せます。その拠点として同藩が築いたのが戸切地陣屋です。五稜郭が完成する9年前のことですね。
―――展示では、戸切地陣屋を「日本最初の星の城」としています。この意味は?
時田さん:当時、長く鎖国の続いた日本と、その間も各地で戦いの続いた海外とでは戦いの前提に大きなギャップがありました。海外では特に、城や陣地の作り方が銃や大砲に備えたものへと大きく変わっていたのです。
そうした中、防衛に適した形として編み出され、数百年をかけて体系化されたのが稜堡式城郭=星形要塞です。幕末の日本は、戦いにおける海外とのギャップを埋めるべく、さまざまな海外の知識を学ぶようになりました。そのうち稜堡式城郭築城の理論や技術を生かして造られた日本で初めての城が戸切地陣屋なのです。
―――戸切地陣屋はあまり星型には見えませんが…。
時田さん:「星形要塞」の用語自体は、鋭角の突端部(=稜堡)を多く備えた稜堡式城郭の通称「Star Fortress」の和訳です。現代の私たちは星形といえば5つの角を持つ形を思い浮かべますが、本来は角が4つや6つ、もっと多い場合も含まれます。戸切地陣屋も、十字に光を放つ星に見立ててもらえればイメージしやすいと思います。
―――戸切地陣屋ならではの特徴は?
時田さん:まずはその立地です。戸切地陣屋の位置する舌状台地「野崎の丘」は、南西側を切り立った崖にはばまれ、さらに北東・北西を沢に区切られた、まさに天然の要害になっています。
台地の上は、北は峠下、南は矢不来の岬まで、函館平野・函館湾を見渡すことができる絶景の土地で、戸切地陣屋が築かれる150年以上前から「近国無双の城地」として、度々松前藩の本拠地移転の候補に挙がっていたほどでした。
こうした地形を生かし、丘の斜面を上がりきった位置に本陣を築くことにより、敵が攻めてくる方向を限定し、さらに登るほどに敵の逃げ場所を奪う造りになっています。これが戸切地陣屋ならではの特徴の第一のものです。
―――本陣の形状と位置にも特徴があるそうですね。
時田さん:本陣は、遠近両方において当時の戦いの主役であった小銃や大砲の性能を十分に引き出せるように造られています。さらに、従来は「砲台を備えた稜堡が一つしかない」と評価されがちでしたが、地形を生かして敵の侵攻ルートを限定できるため、丘に登り始めた瞬間からほぼ全面的に敵を攻撃可能な範囲に収めることが可能です。さらに坂の途中に重要な施設を置かないことによって敵の隠れる場所を奪い、ちゅうちょない攻撃が可能な状況を作り出しています。
つまり、砲台は「一つしかない」のではなく、一つあれば十分な場所に備えられていたのです。
この2つのポイントを併せて考えると、戸切地陣屋は「日本の風土に合わせた、地形を生かす和式築城の理念」と「当時の戦いの主役であった銃や大砲を十分に生かすために西洋で洗練された稜堡式築城の理論」、この2つを併せ持った「和洋折衷の城」だったと言えます。
―――当時の松前藩に、なぜそのような最先端のことが可能だったのでしょう。
時田さん:戸切地陣屋が築かれる5年前に藩主を継いだ十二代・松前崇広(たかひろ)は、就任直後に幕府より松前城改築の許可を取り付けるなど、優れた知見と北方防衛に対する強い熱意を抱き、藩内軍制の西洋化を目指していました。
その一環として、優れた学者として名をはせ、当時いよいよ洋学を教授し始めた佐久間象山(しょうざん)の下に、砲術家でもあった藩士・藤原重太、後の藤原主馬(しゅめ)を留学させます。当時の象山の書簡などからは、彼が非常に熱心に学び、かつ象山の教えの実現を強く願っていたことがうかがえます。この「留学の成果」「崇広の先見の明」、そして、近国無双の城地と呼ばれた「野崎の丘」の3つがそえろったことが、戸切地陣屋という稀有な城を生んだといえます。
―――しかし、戸切地陣屋への現時点での評価はあまり高くありません。
時田さん:ここには、当時ならではの事情があります。まず、先にお話しした通り、日本と西洋では理論や技術に大きなギャップがあり、それを認識している人とそうではない人では、意識に大きな隔たりがありました。つまり、設計・工事・運用、それぞれが同じ意識の下で行われるためには、藩全体に西洋の理論や技術を広く浸透させる必要がありました。
当時それに成功した宇和島藩、佐賀藩、長州藩、薩摩藩などは改革を成し遂げて幕末に雄飛します。しかし松前藩では、崇広が改革を推し進めようとしましたが、できなかったんですね。
―――藩主の方針が浸透しなかったのですか?
時田さん:はい。当時の資料を精査すると、藩内全体に西洋式軍制の訓練に参加するよう通達を行っていますが、これに対して藩士がサボタージュを行う、西洋式訓練の場でこれ見よがしに旧来武術の稽古を始める、私語がひどいなど、まともに参加していなかった様子がうかがえます。
その結果、後の箱館戦争直前に剣や槍などの武芸者を中心とした部隊「鎗剣隊(そうけんたい)」が組織されたり、松前城攻防戦の中で西洋砲術ではなく伝統砲術の「種子島流」が使われたりと、維新期になって大きく立ち遅れることになりました。
星型城塞は、作った人と使う人の意識が一致していないと価値が認識されません。藩内に西洋化に抵抗する空気がまん延する中で、日本初の稜堡式城郭である戸切地陣屋はいつしか「単なる土塁」「変わった形の陣地」としてしか評価されなくなったのではないでしょうか。
―――松前藩士が西洋化に抵抗したのはなぜなのでしょう。
時田さん:それまで長い間自分たちなりにプライドを持って培ってきたものを「時代遅れだからすぐ捨てて、新しいものを学びなさい」と言われても抵抗があるのは当然です。日本的な武芸・武術の教え方は「師弟相伝」。道場に集うみんなが極意を共有するわけではなく、特に優れた高弟にだけ伝授されます。ところが、西洋砲術は違います。手に持つ兵器の威力は誰が使っても一緒で、後は精度の問題。その精度を高め、みんなで同じくらいのレベルに高め、戦力にむらがないようにする教え方です。これは、個人の武力を磨いてきた当時の武士には、極めて受け入れ難い事実だったと思います。自分たちの存在意義すら否定されてしまいかねません。
当時、松前藩だけでなくどの藩も同じ苦労を抱えたようですが、それを乗り越えて藩の砲術を全て西洋砲術に統一した藩もありました。残念ながら松前藩はそこまでには至りませんでした。江戸や京都など、当時の時代変革や人士交流の中心地から蝦夷地が遠すぎたせいなのかもしれません。
―――最近の研究で、戸切地陣屋が象山の教えを忠実に守って作られた稜堡式城郭であることが分かったそうですね。
時田さん:戸切地陣屋の設計図は残っていませんが、現在残っている陣屋の形、各ポイント、稜保の角などを図面に落とし、それらを線で結んで規則性がないかを調べました。その結果、一辺200メートルの正方形とその対角線と等分線に沿って規則正しく造られていることが新たに分かりました。
では、こうした設計の考え方が稜堡式城郭にあるのかを調べたところ、日本語に翻訳されたヨーロッパの築城術の本「英国斯氏(すし)築城典刑」に、まさしくこれと同じ正方形を基準にした稜堡式城郭の設計図が載っていました。つまり、当時日本に伝わっていた稜堡式城郭の基本的な概念に沿って造られたことが分かりました。
―――当時の文献に設計図があったのですね。
時田さん:とは言え、この文献は戸切地陣屋が完成してから和訳されたものなので、さらにさかのぼって原語の文献を探したところ、最終的に17世紀のフランスの軍人、ヴォーバンが記した築城術の教本に、戸切地陣屋陣屋と同じく正方形を基準にした稜堡式城郭の設計図があることが分かりました。彼は、15世紀頃から経験則的に造られていた星形要塞を体系化した人で、城造り、城攻め、街づくりの名手として知られています。
―――ヴォーバンの教えが日本に伝わっていたということになりますか。
時田さん:戸切地陣屋陣屋は、ヴォーバンが記した教本の通りに造られています。
まず、正方形を基準に築かれていること。これには、攻めてくる方向によって防御力に偏りが生じるのを防ぐ意味があります。17世紀当時、星形城塞はその立体的構造、つまりはどんな角度や高さで作れば有効なのかについての幾何学的、数学的分析が進んでいました。ヴォーバンは、その複雑な理論を体系化し、平易化し、汎用化したのです。
そして、周囲より高い場所に造られたこと。銃砲は高い位置から下に向けて撃つのが定石で、ヴォーバン以降はそれが城塞の設計理念に盛り込まれていきます。
まさしく戸切地陣屋は、ヴォーバンの築城理念を実現するのにうってつけの場所で、むしろこの場所でなければならなかったと言えます。ただ単にヨーロッパを模倣したのではなく、ヴォーバンが体系化した「定理」が150年後の日本に受け継がれ、国内で初めてこの地で造られたことには、大変大きな意味があるのではないでしょうか。
(取材後、さらなる調査研究により、このヴォーバンの稜堡式築城における定理に基づく19世紀前半のオランダ語築城術教本に示された四稜型稜堡の寸法・構造に係る理論値が、戸切地陣屋におけるそれとほぼ完全に一致することが確認されました。この内容については、6月12日に北斗市郷土資料館において開講される「ふるさと歴史講座」で発表される予定です)
―――今後、戸切地陣屋は再評価されていくでしょうか。
時田さん:これまでは、「大して使われることもなく、最後、箱館戦争時には陣屋を放棄して逃げたではないか」と低く評価されてきました。しかし、設計した藤原主馬が、当時としては日本で初めての正当な稜堡式城郭を築いたことは事実です。運用する側が十分にそれを認識しておらず、兵器の進歩というタイムラグもあったことが、最終的に残念な結果になってしまいました。
設計当時の知識や技術と、最終的にその城がどんな結末を迎えたかに大きなギャップがあるのがこの時代です。これまでは、それがごっちゃになって評価されてきました。今後は正しい評価が定着することを願っています。
―――改めて戸切地陣屋への思いを一言。
時田さん:激動の幕末、日本が世界の渦に巻き込まれていく中で、どうすれば日本を守っていけるのかと試行錯誤した人たちの熱意の結晶が戸切地陣屋であり、五稜郭だと思います。激動のさなか、北海道という非常に限られたエリアで非常に強く輝いた星たちです。
時代が夜明けを迎える前の薄暗がりの中で、一瞬光をまたたかせながら、夜明けとともにその役目を終えていった多くの星。その中で最初に光を輝かせた戸切地陣屋を、皆さんにもっとたくさん知ってもらえたらと思っています。
―――ありがとうございました。
北斗市郷土資料館の開館時間は9時~17時。入館無料。月曜休館。